前会長の大串啓二さんご逝去

筑波大学陸上競技部OB・OG会 前会長の大串啓二さんが3月17日(火)23時01分、肺炎のため逝去なさいました。85歳でした。通夜・葬儀は家族葬で営まれ、参列や弔電・香典はご辞退なさいましたので、OB・OG会は、供花で弔意をお伝えしました。

各人から追悼文を受け取りましたので掲載し、ご冥福をお祈りいたします。

 

競技者・指導者・企業人として功績 見事な活躍だった大串先輩

鴨下礼二次郎(1961年卒)

昭和32年(1957年)に私が東京教育大学に入学した時、大串さんは4年生でした。第5回国際大学スポーツ週間(次回からユニバーシアード)が9月にパリで開催された年です。

関東インカレ・日本インカレが予選会となっていました。関東インカレ前、大串さんは大変調子が良かったのですが、大会直前に利き足の指先が「ひょう疽(そ)」になってしまったのです。痛くてスパイクがはけず、スパイクの先端を切って走りました。それでも見事優勝。1ヶ月後の日本インカレも優勝して晴れの日本代表に選ばれました。

60年前、海外に行くのは大変なことでした。東京教育大学は大串さんと棒高跳の安田矩明さんの2名が代表でした。

羽田空港には各大学から大勢の関係者が見送りに来ており、のぼりを持ち、校歌を歌い,時には胴上げもみられ、「バンザイ、バンザイ」の連呼。大串さん・安田さんが花束を持ってタラップ(当時の飛行機は、乗客が駐機場まで行って階段を上がった)で手を振りながら塔乗する姿は何とも格好良く、「いつか私も…」と思いながら見送ったことを思い出します。大串さんは400m.ハードル第3位で、日本人唯一のメダリストとなりました。

当時の東京教育大学箱根駅伝チームはメンバーが足りず、大串さんは帖佐駅伝監督の命令で3ヵ月間駅伝の練習をし、4区の小田原・平塚間を何度となく試走(本番は出場せず)しました。その年はアジア大会東京大会の年。優勝確実と言われておりましたが、冬の間道路をかなり走ったため瞬発力が無くなり、結果は残念ながら銀メダルでした。

400mハードルでは日本記録を6回更新し、オリンピックはメルボルン、ローマ、東京の三大会に出場。引退後は旭化成の監督になり、長距離を日本一にし、オリンピックのメダリストを育てました。旭化成には特別顧問として75歳まで在籍し、「社長・専務が60歳代。70歳以上は私一人ですよ」と。会社にも多大な貢献をしました。

陸上競技人、企業人として見事に活躍された人生でした。ご冥福をお祈りいたします。

1957年度 国際大学スポーツ週間 パリ大会
欧州遠征 ルーマニア国際選手権 1957年9月 ブカレストにて

 

おおらかで偉大な選手で企業人 前会長の大串啓二先輩を偲ぶ

会長 宮下 憲 (1970年卒)

前会長の大串啓二先輩逝去の報に接し、生前のご活躍を偲び、謹んで哀悼の意を表します。

大串先輩は、1964年の東京オリンピックまで国内の400mHを力強く牽引し、日本記録の更新は6度に及びました。大学3年時のメルボルン大会からローマ、東京まで3大会連続のオリンピック出場という稀有な実績。日本選手権では優勝4回(他に400mを2回制覇)国体では64年までの10年間で実に8度の優勝(他に400m制覇1回)という輝かしい戦績でした。

400mHは筑波大の日本インカレ種目別歴代得点合計で最高となっていますが、大串先輩は400mHを本学の伝統種目にした立役者でもあります。こうした実績から、インカレ激励会などでは世界に通用する選手の輩出をと、常に熱っぽく後輩を激励しておられました。

知遇を得たのは先輩が日本陸連の強化副委員長として小掛照二委員長を補佐していた時代。私がハードル担当の強化委員に選任され、以後ご指導と激励を受けました。こと競技に関しては厳しいものの日頃は大らかで、時に佐賀弁が出て親しみやすく野性味も感じられるお人柄でした。小掛委員長からバトンを受けた後、本会でも会長に就任されると新たな一面も見せていただいた。

企業人として経営の経験もなさっているだけに会議運営も明朗で的確。目標や課題を明確に設定して追求するやり方でした。偉大な選手で、一流の企業人でもあった。会議後の会食ではいつも旺盛な食欲を発揮されるバイタリティあふれる日々だったので、ご逝去は信じられない思いです。

会長としては、本会の明確な活動指針を示すと同時に、卒業生有志の組織だった後援会から卒業生全員が会員となるOB・OG会組織へ改組。従来は象徴的な存在だった会長みずからが先頭に立ち、必ず役員会に出席して積年の課題に真摯に立ち向かわれた。役員の意見も取り入れて会の活性化を図り、本会の存在意義を高めていただいた功績は極めて大きい。

 先輩の志を引き継ぎ、われわれはさらなる会の発展を目指す決意です。心からご冥福をお祈りいたします。安らかにお眠りください。

合掌

OB・OG会改称後の初開催だった千葉国体時総会

スタンドからインカレの応援

関東インカレで学生の成績報告

 

精力的にOB・OG会新組織の流れ作り 大串会長と共に全国巡った6年半

前幹事長 小松邦江(1967年卒)

2008年(H20年)5月、「陸上競技茗友会」会長だった木南道孝さんが逝去され、残余の任期を引き受けたのが「大串会長」のスタートです。

「会長就任の抱負」で本会の目的である「会員相互の親睦」「筑波大学陸上競技部の支援」を進めるための取り組みとして「規約改正」「会費納入率向上」「総会充実と支部活性化」「広報活動充実」の4点を掲げ、早速翌年(2009年)の新潟総会で規約改正案を示し可決。会の名称は「筑波大学陸上競技部OB・OG会」、大学内に置かれていた事務局は幹事長宅となり、会報も一新してOB・OG会の新体制がほぼ固まりました。2010年には83名の会員が千葉に集まり、生まれ変わったOB・OG会初の総会が盛大に開かれました。

大串さんはこのとき76歳。長くお勤めになった旭化成を退職され、以後はOB・OG会会長の職責に情熱を注がれました。筑波で行われるIC激励会や表彰式には欠かさず出席され、学生にご自分の経験や期待の気持ちを熱く語りました。地方で行われる国体・IC等にも出向き、多くのOB・OGと懇親を深めました。

会長就任時に掲げた抱負を実現すべく精力的に動き、目指す方向に大きな流れができました。そして2015年(H27年)5月、川崎で行われた総会で最後となる議長を務め、宮下憲さんに会長を引き継ぎまして役目を終えました。

大串さんが会長の間、役員に多少の入れ替えはありましたが、副会長の鴨下礼二郎さんと大岡久恵さん、幹事長の私(小松)の4人はずっと一緒。6年半をOB・OG会役員として共に過ごしました。筑波に4人で何度も車で出かけ、現役の活躍を共に喜び、檄を飛ばしました。また、地方の競技会に一緒に出掛け、競技場では大声で声援を送り、夜は地元のOB・OGとの懇親会。そして翌日は名所めぐり。楽しかった思い出が次々に蘇ります。

おいしい思い出を一つ。「暮れの柚子」と「春の筍」です。大串さんのお宅のお庭にたわわに実った柚子を3人に毎年お送りくださいました。今頃の季節は、早朝にお宅の裏山で掘った筍を、その日に作業着のまま電車に乗って下北沢までお持ちくださり、「これは大岡さん、これは鴨下さん、これは小松さん」と届けてくださいました。何年続いたでしょう。

奥様が「主人は陸上競技が大好きでした。最後まで陸上競技に係わることができて大満足の人生だったでしょう。とても穏やかな顔で旅立ちました」とおっしゃっていました。世界のそして日本の陸上競技を、母校の活躍を見守ってくださっていることと思います。ご冥福をお祈りいたします。

走り高跳びの戸邊直人選手を激励

激励の挨拶をする大串会長

 

豪放磊落で温かい陸上人 大串先輩の思い出

筑波大陸上競技部長 尾縣 貢(1982年卒)

豪放磊落な方だった。最初に対面したのが、1982年ニューデリー・アジア大会。私は十種競技の選手で、選手団コーチであった大串先輩から本番前のサブトラックで薫陶を受けた記憶がある。大きな声、屈託のない笑顔、そしてトレーニングウェアには不似合いの黒い靴下。最初の出会いでの陸上人「大串啓二」先輩との思い出が断片的に蘇る。

それ以降、日本の強化の中心的役割を担われ、ソウル・バルセロナ両オリンピックでは陸上競技選手団監督を務められた。「日本の陸上=マラソン」の時代に、短距離・リレーの種を播かれた方である。21世紀に入って見事にその花は咲いた。

いつも温かい言葉で勇気づけられた。「桐の葉」のユニフォームが紺からブルーになった時にも「尾縣君、色など気にすることはない。チームが強くなればいいんだ!」と励ましていただいた。安らかにお眠りください。先輩の意志を継いで日本の陸上を支えます。

表彰式で新任の木越コーチを激励