◎加賀路を駆け抜けた聖火

荒川 弘(1970年卒)

昭和39年8月31日、ギリシャのオリンピアにて太陽から採火された「平和のともしび 聖火」は、民族、宗教、国家、政治を越えた世界の願いを込めて一路、東京へと出発した。アジアで初のオリンピック開催をぜひ成功させようと経由各国の協力体制も盛大なものとなり、9月9日鹿児島空港に到着した。さらに宮崎、千歳にも配火された聖火は国内4経路を延べ6700km、10万人のランナーを動員する史上最大規模となった。

 

6月2日、石川県下42市町村と15の高校の16歳から20歳の若者から、1311人のランナーが発表され、小松高校からは2年生の運動部員を中心に10人余が参加することとなった。この年はオリンピック開催のため、インターハイ、国体などすべての競技日程が変則日程となるが、各自、部活動で、母校、地域の代表として責任を果たせるよう練習を重ねた。ともあれ、個人練習やリハーサル試走も含めた4か月の準備期間は、高度経済成長の真っただ中で戦後復興の成果を顕示すべくオリンピックムード一色の中で、瞬く間に過ぎていった。

小松市での聖火受け渡し

 

9月30日、13時32分第15区中継点のJR粟津駅前は1万人の人出となり、国道8号線は日の丸の小旗の群衆、鼓笛隊、自衛隊の戦闘機で異常な祝賀ムードである。午前中から準備し待機中のリレー隊は沿道の小旗のゆれとともに、緊張の極度に達する。対面式、そして慎重に、慎重に点火確認のあと8号線へ走り出し、パトカー、白バイの先導で進むものの、リハーサルとは全く状況は違い、足は地につかず快調にはほど遠い走りのまま、ようやく次の中継点、矢崎バス停に到着し渡火することができた。家族や同級生など多くの人々に声援をいただいたものの確認すらできず全く余裕のない7分間、1.4kmのコースであった。しかし、リレー隊が日の丸の人垣の中に吞み込まれていく後ろ姿を見送ると無事に遂行できた満足感が心地よくこみ上げてくるのを感じた。

荒川さん加賀路を走る

 

このようにして国家体制で運ばれた聖火は10月10日、国立競技場にて昭和20年8月6日、広島原爆投下の日に広島で生まれた新生日本を代表する青年、坂井義則氏によって聖火台に点火され大イベントの幕があげられ、アマチュアスポーツの祭典が始まった。

2年後、進学した私は国立競技場で開催されるインカレなどの大会に出場し、芝生のフィールドから聖火台を見上げるたびに東京オリンピック聖火リレーのことを思い出し感激に浸ったものである。昭和の59年のロスアンゼルス大会からアマチュアの言葉が消え去り、商業化の一途をたどる現代のオリンピックを見るにつけ、アマチュアイズムと記念のトーチはいつまでも大事にしたいと思う今日である。

正走者の荒川さん

 

★上の文章は夫の「荒川弘」が脳出血を発症する3年前(1999年)に母校の小松高校が、100周年の記念誌を発行する事となり、請われて寄稿したものです。

石川県在住者にとって忘れてはならない人がいます。同窓ではありませんが、東京オリンピック選手団長の大島鎌吉氏(金沢市出身)です。熱い思いで青少年育成を願ったリレー隊の提案など、彼の功績を県下の有志で「学ぶ会」を立ち上げ、活動しているのを知りました。主導しているのは福岡大学で故田中宏暁さん(1970年卒)に師事し、順天堂大学大学院で形本静夫さん(1970年卒)の教えを受けた竹井早葉子女史です。(荒川貴子:1969年卒)