温厚で頼もしい人生の先輩 福本久雄先生を偲んで

1966年卒  神尾 正俊

東京教育大学1期生の福本久雄先生が1月27日に逝去されました。私にとっては武蔵大学の上司であり、大変にお世話になった先輩でした。先生との思い出をたどり、「お人柄」の一端を紹介してありし日を偲びます。

先生との出会いは学生時代、幡ヶ谷の全体練習の時に短距離コーチとして紹介されたのが最初です。当時は武蔵中学・高校の教員をなさっていて、専門種目のハードルではインカレ等で活躍され、キャプテンを務められていたと聞きました。1948年に入学された東京高等師範学校が学制改革で消滅し、翌年に東京教育大学体育学部に再入学、ソ連のスポーツ界に精通されていることなどを伝え聞きました。

卒業後は山形の高校教員へと思っていたところ、福本先生と飯塚祥人先生(1957年卒・ハンマー投)のお二人に小田急デパートの喫茶室で“武蔵に来ないか”と誘っていただき、66年からお世話になりました。入れ違いに福本先生は日本女子体育大学へ移られましたが、その後も非常勤講師として外房・鵜原の臨海学校へも参加していただきました。遠泳に必要な和船操縦術「櫓漕ぎ」を先生に指南していただき、「免許皆伝」となりました。

26年ぶりの箱根駅伝出場を祝う会で(2019年11月)

日女体大時代の先生は、オリンピック青年協議会(OYC)を通してソ連とのスポーツ交流を継続され、数度にわたるスパルタキヤード(日本の国体)視察で、ソ連スポーツ界では通称「ヤポンスキー福本」の有名人だったそうです。ソ連のスポーツマンを日本に招いて交流を深めておられ、富士山麓での交流会では私も会場整備係でお手伝いしました。

もう一つ感謝しているのはスキー指導研究の件。武蔵中・高校の「スキー教室」で1968年から指導法の実験的研究を実施しました。それまでは身長より20~30cm長いスキーを用いていましたが、初心者には身長より10㎝程短いスキーで指導。目を見張る効果がありましたが、短スキーでスキー操作ができても長いスキーを操作できなければ「指導法」として認められないという時代でした。そこで先生にお願いして「日女体大」の実習で短スキーによる回転技術(プルークボーゲン)を習得させ、その後に長いスキーで滑走。その結果、短い板での技術は長い板へも転用できることが実証できたのです。スキー界はその後、短スキーへの移行、板の形状(カービィング・カット)等のスキー板、技術の開発へと急速に移行していきました。

武蔵大学に人文学部が開設された1970年、先生は助教授として復帰され、3年後には教授へ昇任されました。面倒見の良い先生は、学生部の職務を経て1976年には学生部長に就任されましたが、この時期は「学生運動」が盛んで、学生部長として大変なご苦労をされました。

学外でのご活躍も目覚ましく、テレビ番組の「びっくり日本新記録(1975年~)」や「おはようサンデーチビッコマラソン(1978年~)」の番組企画や解説に取り組まれたほか、子どもや一般の人々が楽しく汗を流している画面を茶の間に届け、国民の健康増進に資する企画に心を砕いておられました。こんな場面でも、テレビの撮影現場に人手が必要なら手早く学生を送り込み、選挙の運動員にアルバイトを斡旋したりと、学生にとってはありがたい先生だったでしょう。温厚なお人柄でしたが、後輩にとって実に心強く、頼もしい人生の先輩でした。

心からご冥福をお祈りし、筆をおきます。

福本先生の左上が筆者の神尾正俊さん(2012年7月東京支部総会)

ピースサインの福本久雄先生(2011年7月の東京支部総会懇親会で)