探求心が指導の原動力 山下昌彦先生を偲んで

杉井將彦(1986年卒)

恩師・山下昌彦先生は、難病であるパーキンソン病を長く患っていましたが、昨年(令和3年)12月26日10時15分にご家族に見守られ静かにご逝去されました(享年83歳)。謹んで山下先生のご冥福を心からお祈り申し上げます。

先生は東京教育大を卒業後、故郷静岡県浜松市に戻り、浜松市立高等学校(当時の浜松市立高校は女子高)保健体育科教師として教員生活をスタートされました。浜松市立高校ではバレーボール部顧問として指導され、ご自身も国民体育大会へ出場(バレーボール教員の部)するなど若き体育指導者として活躍されました。その後、県立浜松商業高校に赴任され、28年の長きに亘り陸上競技部顧問としてご指導されました。当時、東海大会への出場者さえいない状況の中で、「5年で全国総体出場者を出す!」との目標を掲げ、着任後わずか3年で全国大会への出場を果たしました。

全国高校総体総合優勝2回(S52.岡山、H1.高知)、個人では100m寺田光男さん、800m小野友誠さん、砲丸投げ榊原英裕さんなど多くの優勝者を輩出されたのに加え、浜松商業高校在任中に全国高校駅伝に9回出場し、入賞1回(S60.8位)の結果を残されています。また、浜松西高校へ転任後も三段跳び優勝の小栗忠さんなど多くの有望選手を輩出されています。

山下先生を囲んで:左は100m優勝者の寺田さん

山下先生の指導者としての素晴らしさは、公立高校の部活動顧問として専門の投擲に留まらず、トラック&フィールドそして駅伝と、部員の希望に応じて指導の幅を広げ、全ての種目において高いレベルの指導を実現されているところにあります。また、私自身、先生の指導を仰ぐと決めた理由も、教え子の活躍や現在の取り組みを誇らしげに語る先生の、生徒を愛し陸上競技を愛する姿勢を見、魅力を感じたからに他なりません。私が高校在学中の3年間、先生のご自宅に下宿する中で、先生が忙しい合間を縫ってピアノ、盆栽(さつき・蘭)、ゴルフと多彩な趣味を楽しんでおられることに驚いたことも鮮明に覚えています。この好奇心や探究心の高さが、先生の陸上競技における指導の原動力であったことは間違いありません。

先生は全国を見据えた指導を徹底されていましたが、決して勝利至上主義に陥ることなく、あくまでも公立高校の体育教員として生徒のレベルに合わせた指導を心がけておられました。そこに先生の教育者としての顔と矜持とを見ることができました。

38年間の公立高校教員としての指導では弛まぬ研究心と情熱溢れる指導により数多くの実績を残され、そのご活躍は静岡県陸上競技協会強化委員長として臨んだ国民体育大会天皇杯獲得にも繋がり、晩年は同協会副会長を2期(4年)務められ、多大な功績を残されました。

山下先生は最期まで陸上競技への情熱を持ち続けられ、病床にありながらも全国高校駅伝のスタートを心待ちにされていたと奥様からお聞きしています。今後は私たち後進の者が先生の御遺志を受け継ぎ、陸上競技をはじめとした教育活動の発展に邁進する所存です。この思いが天に召された先生に届くことを願い、追悼の辞といたします。

山下先生と奥様 愛用のピアノの前で