爾来、東京高等師範学校、東京文理科大学とともに、陸上競技部も発展してきたが、昭和24(1949年)年5月31日に発布された国立学校設置法(同年6月1日付)で68大学が発足した。
東京文理科大学(1929~1953年)、東京高等師範大学校(1902~1952年)、東京体育専門学校(1937~1949年)、東京農業教育専門学校(1937~1949年)が合併して東京教育大学(1949~1978年)となったことに伴い、東京文理科大学陸上競技部(東京高等師範学校を含む)と東京体育専門学校陸上競技部が東京教育大学陸上競技部として関東学生陸上競技連盟に加盟し、対外競技に出場することになった。
陸上競技部の活動
浅川正一部長、武政喜代次監督を中心に保谷グラウンド(400m)と体育学部(幡ケ谷)グラウンド(300m)を主たる練習場所として部の活動が開始された。
毎日の活動は、主将・主事を中心にブロック(種目群)ごとに進められた。
指導者に関しては、大学の関係者だけでなく、在京の先輩の方々が貴重な時間をさいて協力していただいた。
また、部の経済的支援についても陸上競技部後援会を中心に物心両面からバックアップしていただいた。
昭和24(1949)年度のインカレ
東京教育大学陸上競技部としての最初の対外競技会である第28回関東インカレでは9位の成績であったが、第18回日本インカレ(明石市)では得点なしに終わり、「名門文理大は無得点に終わった」と日本学生陸上競技連合70年史に記されている。
この経験が部員や卒業生の「強くなろう」という活動の姿勢に強く反映されることになった。
インカレへの女子の参加
関東インカレ、日本インカレとも昭和26年度から女子部が発足した。
東京教育大学は新制大学発足とともに女子学生が入学するようになり、女子部員が入部してきたことから、昭和27年度からのインカレに参加した。
関東3位、日本6位という素晴らしい船出であった。
インカレでの活躍
明石でのインカレを除けば、関東・日本両インカレとも毎回必ず得点を挙げている。
しかし、関東インカレで女子3度、日本インカレで男子5度、女子6度と低得点に甘んじている。
昭和20年代の学生競技者の不安定な状況下での問題と違い、昭和40年代の学生競技者生活の状況は全く異質のものであった。
世相を反映した毎日のように繰り広げられる学生運動の煽りを受け、毎日の受講や練習もままならない状況であった。
そのような状況下、寸暇を惜しんで練習に励んだが、納得のできる成果を挙げるには至らなかった。
大学紛争と入学試験
昭和42年の「筑波研究学園都市への移行表明」を契機に、東京教育大学でも学生運動がいっそう盛んに行われる状況が惹起した。
「毎日のように繰り返される学生運動、その対応に追われる教授会」という有様では、指導者側も学生の部活動に参加することができる状況ではなかった。
そんななかで行われる入学試験に優れた高校生が積極的に挑むことを期待できる状況ではなかった。
しかし、そのような状況下での学生生活であったにもかかわらず、昭和40年代半ばの部員の多くがよく努力し、社会に巣立ってから体育やスポーツ、とりわけ陸上競技の指導者として優れた成果を示していることは賞賛に値することである。
関東学生東京箱根間往復大学駅伝競走
大正9年2月14日、15日に第1回大会が開催された。東京高等師範学校徒歩部は、大会の企画をはじめ創設に尽力したといわれているが、大会においても優勝を飾っている。
東京教育大学時代の箱根駅伝は、昭和24年度から昭和51年度(第25回大会から第52回大会)までのうち26回出場(昭和25、26年度は欠場)している。
昭和27年の第29回大会から昭和35年の36回大会までは3位3回、4位3回、5位1回、6位1回と極めて優れた結果を残し、駅伝の練習成果を長距離競技においても遺憾なく発揮している。
昭和36年の第37回大会からは、第39回大会の8位、第43回大会の9位を除き、10位以内の成績が残せず、毎年のように予選会からの参加を余儀なくされた。
国際大会日本代表選手
東京教育大学陸上競技部時代に主な国際競技大会に日本代表として出場した学生および東京教育大学卒業生は、表2に示す通りである。
在学中に日本記録を樹立した競技者
東京教育大学陸上競技部員が在学中に日本記録を樹立した競技者は表2に示す通りである。
そのなかで、安田矩明の棒高跳びは、棒の材質が竹からスチールに、そしてグラスファイバーに変化した過程のものであり、鳥居義正のグラスファイバーでの日本新記録樹立へとつながっているものとして高い評価がなされている。
筑波大学陸上競技部への移行
昭和45年に「筑波研究学園都市建設法(筑波法案)」が成立。
昭和46年に「筑波新大学に関する基本計画」が出され、昭和48年10月10日に筑波大学が開学した。
これら一連の手続きが進められる中で、東京教育大学陸上競技部は昭和47年秋に「東京教育大学が発展的に解消して筑波大学として移転する」との立場から、筑波大学の開学を待たずして、部の名称を「筑波大学陸上競技部」と決定(関東学連への届け出は昭和49年度から)した。
(「東京教育大学体育学部の歩み」:2015年11月15日茗体会発行)
表1 歴代インカレ、箱根の順位と主将・主事の一覧(教育大時代のみ)
部長・監督(教育大時代のみ)
部長
- 昭和24~43年度 浅川正一
- 昭和44~50年度 武政 喜代次
- 昭和51年度~ 松田 岩男
監督
- 昭和24~38年度 武政 喜代
- 昭和39年度~ 関岡 康雄
表2 国際大会出場、日本記録樹立者(教育大時代のみ)