陸上競技のルーツをさぐる9

障害物競走とハードル競走の歴史(そのⅢ)

もう一つの「障害物競走」のルーツ

バミンガム大学医学部学生たちが、丘陵を利用して障害物競走を行ったのは19世紀の中葉でしたが、それよりも古い時代から、英国では子どもたちが「兎狩り」をまねた遊びが盛んでした。この遊びは、国王や貴族たちが、「フォックス・ファウンド」と呼ばれる猟犬を使って行った「狐狩り」や、ビーグル犬やハリアー犬を使っての「兎狩り」のまねをしたもの。特に、素早く走り回る野兎を追う「兎狩り」は人が馬に乗らず犬の後を追いかける方法だったので、子どもたちは日常の遊びの中に好んで取り入れていたのです。

16世紀から17世紀に英国で活躍した有名な作家のシェクスピアは、代表的な作品『ハムレット』の中で、「狐狩り」をまねて一人の男の子が走り、もう一人の子どもがそれを追いかけるという、日本の「鬼ごっこ」に似た遊びについて述べています。このことからも、この種の遊びが相当古くから子どもたちの間で行われていたことがうかがえます。

このような子どもの遊びが、19世紀の英国のパブリック・スクールの生徒たちの遊びに引き継がれて行ったのも、何ら不思議ではなかったはずです。ニュージーランドのベテランズ長距離の元チャンピオンのR・ロビンソン氏が1993年秋に来日され、講演の中で1844年に英国のシューズベリー校で著名なラテン語文法の著書を持つケネディ校長の逸話を紹介。当時、同校でこの遊びが流行し、選手たちがレースを行うたびに途中でコースを外れてパブに立ち寄ってビールを飲むので立腹し、レースを禁止にしてしまったのだそうです。

シュルズベリー校で行われていた遊びは、先頭に立った2人の生徒が校長の書いた文法書を引きちぎって紙切れにして袋の中に詰め、まるで狐が自分の「匂い(scent)」を残して走るように、その紙を痕跡として落としながら走る。他の生徒たちは、ハウンド犬役や紳士役となって紙切れを見付けながら先行する「狐役」を追いかけます。最初に「狐」を捕まえた生徒は、実際の大人の「狐狩り」で表彰されるのと同様、「ブラッシュ(狐の尻尾)」と呼ばれる賞をもらうのを栄誉としていました。

この種の遊びは1820年から50年にかけて次第に英国中の学校に広がっていき、「狐とハウンド」とか「野兎とハウンド」、時には、狩りの時使われる猟犬の名前をとって「ハリアー」と呼ばれて、生徒たちの間で楽しまれました。今日でも英国や豪州、ニュージーランドの多くのランニング・クラブの名前に「ハリアーズ」との呼称が付けられているのは、ここに起源があるのです。

これらが契機となって、その後シュルズベリー校の「ハウンド・ゲーム」は毎年行われるランニングの大会へと発展していきました。さらに、後年になって、このレースの事を走るコースの様子から「障害物競走(Steeple-chase)」と呼ぶようになったのです。

さらに、この生徒たちの遊びが、成人にまで楽しまれるようになったことを受けて、1867年12月7日には「テームズ・ローイング・クラブ」が大会を主催しましたが、数回の大会を経て、68年10月30日に行った大会を契機に「テームズ・ヘアー・アンド・ハウンド」というクラブをロンドン郊外に設立しました。「ヘアー(hare)」とは「野兎」を意味する言葉ですが、このクラブは、のちに触れるように、自分たちが野原にある自然を利用した障害を飛び越しながら走る「障害物競走」を冬から早春にかけて行っただけでなく、今日の「クロスカントリー」形式の大会をも主催していくことになりました。

正式な「障害物競走」のはじまり

一方、前述したように、学外の丘陵などで行われていた競走が各学校内に持ち込まれて発展した競技会は、英国内の鉄道網が発達し、郵便制度が充実して学校間の情報伝達がより早まることになって、ついに64年3月5日にオックスフォードのクライスト・チャーチのグラウンドで「オ大対ケ大」の二大学対校戦が開催の運びとなりました。当時盛んに行われていた「障害物競走」は、100ヤード走や走巾跳など8種目の一つ「2マイル障害物競走」として例外なく実施されました。これが正式な「SC」の始まりだと言って良いでしょう。

英国ではその後、こうしたカレッジや大学を卒業したOBたちが、自らクラブを作り、資金を出し合ってシンダー製の専用陸上競技場をつくり、「アマチュア選手権大会」を開催していきますが、その競技場には必ず今日と同じような水濠(water-jump)を設営して「障害物競走」ができるようにし、それまで自然の牧草地や公園で行っていた種目を競技場内での種目に変えていったのです。

今日、オリンピックや世界選手権で行われている「3000mSC」は、1879年「英国アマチュア選手権<AAA>大会)」の種目として競技場内で行った「2マイル(=3218m)SC」が原形ですが、その後、メートルの基準に合わせて「3000m」にして行ったものなのです。

オリンピックでこの種目が実施された歴史をみると、男子では、1900年の第2回大会(パリ)では「2500mSC」と「4000mSC」の2種目が、1904年の第3回大会(セントルイス)では「2590m」という変則で、08年の第4回大会(ロンドン)では2マイルに近い「3200mSC」として行われました。しかし、第5回大会(ストックホルム)大会では、なぜかこの種目は行われませんでした。

その後、1912年に国際陸連(IAAF)が発足しましたが、16年は第一次世界大戦のためにオリンピック大会自体が中止となったので、20年の第7回(アントワープ)五輪からは、今日と同様「3000mSC」としてルールも確立して、現在も変わらず実施しています。

なお、女子に対しては、この種目は衝撃などが大き過ぎると、長期にわたって実施が見送られてきましたが、冒頭にも述べたように、体力的にも可能と判断されて1998年から障害物、水濠等の規格を定めて公認種目として、発足して今日に至っています。

(以下次号)

 

図版の説明と出典

①「1869年のテームズ・ヘア・アンド・ハウンズ・クラブ主催の障害物競走のスタートの様子」(「イラストレート・ロンドンニュース新聞」1869年11月27日より)

『The Annals of Thames Hare and Hounds1888―1945』(1948年J.Ryan著表紙絵より

②「1908年ロンドン五輪の水濠飛越の様子」

『The 4th Olympiad London 1908 Official Report』(1909年 P65)

③「1928年アムステルダム五輪障害物のハードル飛越の様子」

『Die Olympischen Spiele in Amsterdam 1928』(1928 同組織委員会公式報告書写真集より P69)

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岡尾 惠市

岡尾 惠市

1960年度卒 立命館大学名誉教授
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