陸上競技のルーツをさぐる1

近代陸上競技の誕生

「近代陸上競技」誕生前夜(英国の場合)

17世紀後半、英国各地には一般の市民たちには考えもつかない様な「超長距離」の競技能力を見せる「ペデストリアン」と呼ばれるプロの走者がいました。

交通手段が整っていなかったこの時代、彼らは貴族に召し抱えられながら馬車に付添って、地方の貴族の館から、ロンドンでの議会に出席するため、貴族の旅行の手筈を整えるのが主な仕事でした。

また、時には自分たちプロ走者同士が公園や道路を使って競走をして、貴族や沿道の見物人に「賭け」をさせたり、職業軍人や「街の走り自慢」の人たちとも競走をして賞金稼ぎをすることもありました。

こうしたプロ走者たちによる「賭けレース」は、年々盛り上がりを見せ、産業革命が進んだ19世紀に入ると、地方からロンドンや工業地帯に働きに出て来た貧しい勤労者たちのつかの間の娯楽のひとつとなって、人気を集め、年々大掛かりなものになって行きました。

これに拍車をかけたのは、印刷技術が進み大都市で大量に発行された「新聞」の役割でした。

新聞は市民の間にレースの予告や予想、選手の成績や記録などの多くの情報を提供しましたので、こうした「賭けレース」はますます多くの人びとの関心を集めて行きました。

しかし、このプロ走者たちのおこなう「賭けレース」は、賭けに参加する人びとの増加とともに、レース全体が見渡せない一方通行の道路を使っての「長距離レース」の形式は次第に廃れて、人びとの関心はクリケット場や競馬場を周回するスピード感あふれる「中・長距離レース」や直線を一気に走り切る「短距離レース」に移っていきました。

この頃の「賭けレース」を行う競技場の雰囲気は、現代の競馬場、競艇場、競輪場などと同じ様相を見せていたといわれます。

 

「アマチュア」のレース参加

こうしたプロ走者の行うレースを一度でも目にした「足に自慢のある」アマチュアの若者たちは、プロ走者には叶わないので、自分たちだけでレースを計画・運営し、実施しようと思ったのは、自然の成り行きでした。

1830年頃になると、エリートの家庭に育った学生を中心とするアマチュアたちは、学校の近くの公園や丘、草原、森林などを利用して、途中の小川や柵を飛び越えながら、それほど長くない1~2マイル程度の距離を走る「クロスカントリー競走」形式のレースを盛んに行う様になりました。

さらに、30年代の後半になるとアマチュアたちは、整備された学校の芝生のクリケット場やフットボールの運動場を使って、中距離の障害物を「短距離走」や「ハードル競走」にアレンジして行う形式にかえていきました。

この様な競走の代表として1837年にパブリック・スクールの名門、イートン校の運動場でおこなった50台のハードルを飛び越す「ハードル競走」や「短距離競走」が今日まで残る記録として挙げる事ができます。

その後、1850年代後半から60年年代になると、学生たちの行う陸上競技形式の試合は、それまで学校内の寮対抗やクラス対抗で行っていた「競走」を中心としたトラック・レースだけでなく、古くから地方の農民たちの収穫祭などで行っていた「力くらべ」的な「砲丸投」や「ハンマー投」、「重錘投(56ポンド)」などをフィールド種目に加えて行う様になりました。(以下次号)

 

写真図版の説明と出典

①「1860年代の学生による「クロスカントリー競走」

(『Athletics and Football』(1887) M.Shearman著 p415 (Longmans,Green and Co)

②「1865年「オックスフォード大学対ケンブリッジ大学対校、1マイル競走の様子」

(『The Official Centenary History of The AAA(英国陸連設立100周年記念誌)』(1979)

P.Lovesey篇 p63 (Guinness Superlative Ltd.)

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岡尾 惠市

岡尾 惠市

1960年度卒 立命館大学名誉教授
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