4年後の計画を今すぐに

(この記事は2016年8月のリオデジャネイロ五輪期間中に執筆されました)

南米大陸で初めて開催されたリオデジャネイロ五輪が熱戦の幕を閉じた。素晴らしい成果を挙げた競技もあれば、残念な結果に終わったアスリートもいた。

 

これから4年後の東京五輪へ向けた動きが加速していくが、地元開催の五輪へ向けた準備を進める上で参考になる事例がある。1964年の東京五輪重量挙げフェザー級に圧倒的な強さで優勝した三宅義信の「1460日計画」だ。

 

大舞台ではメンタルが重要

三宅は60年ローマ五輪バンタム級で銀メダルを獲得した。国際経験がなかったにもかかわらず、初の五輪挑戦で表彰台に立った。ところが、実際には薄氷を踏むような内容だったのだ。

 

当時はプレス、スナッチ、ジャークの3種目だったが、いずれも3回目にやっと成功する苦しい展開。ジャークの3回目は日本の方角、母が願掛けしてくれた地元の神社へ祈ってからステージに上がり、なんとか銀メダルを手にしたのだという。

 

9回の試技で成功は3回。それまで「バーベルは持てば挙がるものだ」と思っていた。初めての五輪で、知らず知らずのうちに金メダルを取りたいという欲と、勝たなければという重圧に押しつぶされていた。

 

大舞台ではメンタル面が重要だと思い知らされ、東京五輪までの4年、1460日のスケジュールをすべて作成した。「東京大会では9回の試技中6回を成功させ、トータル400㌔を挙げて優勝」の目標を、悔しさがあるうちにローマで立てたのだという。

 

4年後の本番は日本選手団の金メダル第1号を期待された。開会式から2日後の10月12日。強心臓で知られた三宅も緊張で体が思うように動かなかったそうだが、3種目3回の試技をすべて成功させて397・5㌔の世界新で圧勝した。ライバルとの力の差があり、余裕を持った重量設定にして自信を持って臨んだ結果だった。

 

悔しさが消えないうちに

4年に1度の五輪では、誰もが勝ちたいと思っている。各競技で日常的に展開されているトップレベル同士でのしのぎ合いが、そのまま大きな重圧が掛かる特別な舞台に持ち込まれる。陸上男子100㍍なら、最高峰のダイヤモンドリーグで上位争いをする9秒台のスプリンターが、最高の緊張感の中で展開される準決勝では体が硬くなって10秒を切れないこともしばしばだ。

 

国内では「最速トリオ」といわれた桐生祥秀、山県亮太、ケンブリッジ飛鳥は、10秒01の桐生を筆頭に誰も9秒台では走っていない。「五輪で日本初の9秒台を」がいかに虫のいい期待だったかは結果を見れば分かる。まず、好条件下でも9秒台を何度か記録し、海外のトップレベルと競り合う経験をすることで、初めて決勝への扉は開ける。

 

結果が良かった選手も悪かった選手も、世界と戦った感触はまだ体に刻まれていることだろう。悔しさが消えないうちに4年後の計画をたてることをお勧めする。(船原勝英)

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船原 勝英

1974年度卒 筑波大学陸上競技部OB・OG会幹事長 
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